ロバの耳☆

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ミステリの退屈についてと『恐るべき太陽』ネタバレ感想

※本記事は、中盤辺りから小説『恐るべき太陽』のネタバレを含みます。
 目印はつけますので、それより先は未読の方は進まないでください。

先日、読書メーターで因縁をつけられた。
私がとあるミステリに「物語は退屈だが仕掛けが尋常ではない」という旨の感想を書いたところ、「ミステリ的な読み方をしていれば退屈という言葉は出てこないはずです。間抜けですね」というような返信があったのだ。
それまでにも何度か返信を受けておりその度に窘めていたのだが、会話が通じる様子がなかったので、ブロックをして交流を絶った。他人の読みを否定すな。

閑話休題。主題は件のユーザーではない(原動力ではある)。
上記のやり取りを踏まえて、私がミステリに求めるものが何かという話をしたいのです。

正直これはミステリに限ったことではないのだが、ともかく私は物語において退屈な瞬間を極力味わいたくはない。
オチがどれだけ秀逸だろうと、そこに至るまでの筋道がひどく退屈であれば、物語全体の評価は並であることが多いだろう。
ミステリというジャンルは、解決編のために、大オチのために、それまでは種蒔きのみに終始することがままある。
その種蒔きがどれだけ退屈なものであろうと許容するのかというところだが、私の場合、そこに工夫を感じられるかどうかを基準にしている。
そこに関してのラインは緩く、例えば簡単に言葉で言い表せるところでは、「極めて特殊な設定に置く」「キャラクターを強烈にする」「『そして誰もいなくなった』方式のクローズドサークルで緊迫感を演出する」くらいのもので良い。
大事なのは、種蒔きの退屈を「そういうもの」として放置せず、読者を楽しませようという工夫があることだ。

以上より、工夫があればそもそも種蒔きの段階でも退屈を覚えないはずであり、
退屈を覚えてしまうようなミステリを高く評価することはないと考えている。

はずなのだが――、そこをおして、終盤に至るまでは退屈だったにも関わらず、読了後は傑作だと感じる小説に出会った。
それが『恐るべき太陽』である。

 

----------ここから『恐るべき太陽』のネタバレに入ります----------

 

偉そうなことを書いておいて、私は量を読んでいるわけではない。
ミシェル・ビュッシという作家も初読だ。
だから作風も知らず、そのせいもあってか、この作品の構造に気付いた時には大いに驚かされた。

作品の大部分を占める主人公の語りが、実は主人公一人のものではなく、登場人物複数人の語りを組み合わせたものだった。

もちろん予想がつかなければ良いというものでもなく、驚きがあれば良いというものでもない。
けれど、この作品が秀逸な点は、この構造が物語に寄与しているところだと思う。
読者はそれまで、一人の女性の視点として語りを読んでいる。
だからそこには少なからず違和感があり、また、気ままな彼女や周囲の人間の行動・態度は退屈なものであった。

けれどこの構造であることがわかると、これまで語られてきた出来事・感情が一変する。
知りたいと思っていた真相や、あの人物の想いが、実はすでに語られていたことに気付く。
視点を勘違いさせられていたとしてもすでにそれは一度読んでいるわけで、母の愛情や夫婦の愛情へ瞬く間に辿り着く。
この瞬間の気持ちよさといったらない。長い解決編やエピローグは必要ない。ほとんどの説明は、すでに終わっていたのだ。
そしてその後に襲い来るのが、語りを終えた人物達がすでに殺害されているのだという寂寥感である。

何故『恐るべき太陽』が傑作であると感じるか。
それは、退屈を許したから、というより、実はそれは退屈なものではなかったから、だ。

ありがとう、ミシェル・ビュッシ。
このタイミングにこの作品に出会えて、本当に救われました。