探偵モノと裁判モノが手と手を取って襲いかかってくる
本日のリーガルハイ。開始に間に合わずタイムシフト視聴(録画を格好良く言い換えたもの)に切り替えたので、空いた時間を使ってブログを書こうと思いました。
はい。つうわけで、リーガルハイ。裁判モノなんですけど、最近ちょっとずつ裁判モノって増えつつあるような気がします。逆転裁判も映画化なんてしてますし。今後もリーガルハイのヒットに便乗して、少しは上昇傾向を見せるのではないでしょうか。
対して探偵モノ。これも増えつつありますね。
というか、こちらの方が今は活発で、まあ東川篤哉からの流れかとは思います。日本映画にはミステリが増えていますし、アニメでは突如として始まった米澤穂信の『氷菓』なんてのもあります。さらにさらには、ドラマも探偵モノばかり。というか今期ドラマの探偵率を異常です。1/3くらいは探偵モノなんじゃないの? て感じ。
しかしですね、今ウケてる探偵モノって、ミステリとしてウケてるわけではありませんよねえ? と思うんですよ。そもそも『謎解きはディナーのあとで』ってのは、キャラクターありきの商品でしょう。東川篤哉作品、幾つか触れてみましたけど、やっぱりミステリではなくキャラクター作品という面が強い。
元来、探偵というのは魅力的でキャッチーな要素です。十数年前にミステリが流行った時期にはそんなキャラクター要素があまり取り上げられず、そのままミステリ市場が縮小していったように思いますが。ここにきてその要素が見直されているわけですね。
つうわけで、やっぱり消費者はトリックの妙だとかを求めているわけじゃないと思うんですよ。受け手が一番興味のあるのは、探偵であり動機であり人間なんじゃないですか。
ともすれば今の探偵モノブームは反ミステリといえるわけです。
対して裁判モノ。
これが何なのかっていうと、やっぱりこちらも反ミステリだと思うんですよね。
ミステリっつうのは、ノックスの十戒だとかで定められる程には、ルールに縛られたジャンルです。ルールの上で如何にして問題を出題しそれに答えるかという、作者VS読者の推理ゲームなわけです(一部例外はありますが、それはミステリの定義を巡る話になってしまうので、ここでは置いておきましょう)。
じゃあ裁判モノは何なのか。これはミステリの真逆。ルールを破壊する物語だと思うんですよ。
例えばですね、ミステリでは『村人』がウソをつきません。モブキャラが「私、あの日犯人の姿を見ました」といえば、そりゃ見たんですよ。全ての発言を事実として、全ての物理現象を正しいものとして扱い、その上で回答を提示しなければなりません。
しかし裁判モノは、そのルールこそを疑います。「え? ホントに見たの?」ていう。そんな迂闊に何から何まで信用して良いのか。ウソをついている人間がいるはずだ。疑い破壊する。裁判モノでは、これが話の軸になります。
ですから、衝撃のトリックの隠されたミステリとは異なり、裁判モノでは事実はとてつもなく凡庸なものなのです。それを複雑にする人間=ルールを破壊する物語といえるでしょう。
じゃあ、何で探偵モノやら裁判モノやらがウケているのか。
これはですね、やっぱり物語をエンターテインメントとして楽しみたいからでしょう。
ミステリというのは、作者VS読者のゲームと上で書きましたけれども、ゲームなんです。ミステリでは、受け手が作者と同じステージに立たなければならないのです。そこには幾らかの労力が必要になります。面倒臭いったらありゃしねえ。
しかも、ある意味、押しつけがましい。ルールを提示して、「これは守ってね」と暗に言っているわけですから。「そんなの簡単に信じられるわけなくね?」となるのも無理はありません。そんな読者の声を地で代弁しているのが裁判モノなわけですね。
探偵モノはルールに則ってゲームを解決します。というかまぁ、普通にミステリなわけですが。キャラクターをフィーチャーしている以上、受け手が事件の解決に注念する必要はありません。受け手はただ探偵が優雅に事件を解決するのに見とれていれば良いわけです。そして人間ドラマに思いを馳せる。
探偵モノも裁判モノも、エンターテインメントとしてはすっごく優秀だと思います。リーガルハイ超面白い。
でも、ミステリはどこへ消えてしまうのか。ゲームがしたい人間はどこへ向かえば良いのか。
もしかしたら、近年ボードゲームが流行しているのは、そんな欲望の捌け口になっているからなのかもしれませんね。なんて。
まぁしかし、探偵モノが流行っているのも、良い傾向でしょう。そのうち、ガチミステリが見直される日も来るんじゃないかなー。来ないか。来ないね。
はい。
というわけで以上です。
ではではまた来週!